Miho Kadowaki's Blog

考えたことを書きます。

特に就活生は、絶対一度見ておきたい「スティーブジョブス 卒業」

色々とうまくいかないことがあって

今、モヤモヤしている自分がいる。

そのモヤモヤを解決できる方法がある。

これは、スティーブジョブスの

スピーチ「卒業」を聞くことである。

何度聞いても、いつの間にか

「よし!がんばろう」というモードに

なる。

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言葉の力って本当にすごいなーと

想う。

だから私は、人生の終わりを描くイメージでは

自分の言葉として語れる自分になること。

そして皆に届けること。

今まできちんと行動出来ていない自分と

さらばしようとおもい、

その一歩としてブログを始めるという行動を

起こした。小さな行動。

まだ1ヶ月も経ってないけど

考えを纏めて書くということが好きになった。

言葉をもっと知りたい。書きたい。伝えたい。

その時一緒にブログ更新を頑張った人が

いるんだけど、その人も行動していて。

改めて3週間、習慣化に出来たことを

感謝したい。ありがとう!

そして今後も色々と行動していこう。 

そして前置きが長くなりましたが

私のだいすきなスティーブジョブスの

スピーチ「卒業」の全文を紹介したい。

特に就活生は見てほしい。

そして。自分と向き合ってほしいな。

大切なのはどの会社で働きたいかではなく

自分のミッションを持つことだ。

そのミッションを持てば、

あとは会社のミッションと結びつけるだけ。

お時間のある時にぜひ。

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PART 1. BIRTH

ありがとう。

世界有数の最高学府を

卒業される皆さんと、本日こうして

晴れの門出に同席でき大変光栄です。

実を言うと私は大学を出たことがないので、

これが今までで最も大学卒に近い経験とい

うことになります。

本日は皆さんに私自身の人生から得た

ストーリーを3つ紹介します。

それだけです。どうってことないですよね、

たった3つです。

最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

私はリード大学を半年で退学しました。

が、本当にやめてしまうまで

18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って

授業を聴講していました。

じゃあ、なぜ辞めたんだ?と

いうことになるんですけども、

それは私が生まれる前の話に遡ります。

私の生みの母親は若い未婚の院生で、

私のことは生まれたらすぐ養子に出すと

決めていました。

育ての親は大卒でなくては、

そう彼女は固く思い定めていたので、

ある弁護士の夫婦が出産と同時に

私を養子として引き取ることで

手筈はすべて整っていたんですね。

ところがいざ私がポンと出てしまうと

最後のギリギリの土壇場になって

やっぱり女の子が欲しいということに

なってしまった。で、養子縁組待ち

のリストに名前が載っていた

今の両親のところに夜も遅い時間に

電話が行ったんです。

「予定外の男の赤ちゃんが

生まれてしまったんですけど、

欲しいですか?」。

彼らは「もちろん」と答えました。

しかし、これは生みの母親も

後で知ったことなんですが、

二人のうち母親の方は大学なんか

一度だって出ていないし

父親に至っては高校もロクに

出ていないわけです。

そうと知った生みの母親は

養子縁組の最終書類にサインを

拒みました。そうして何ヶ月かが経って

今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、

さすがの母親も態度を和らげた、

といういきさつがありました。

 

 PART 2. COLLEGE DROP-OUT

こうして私の人生はスタートしました。

やがて17年後、

私は本当に大学に入るわけなんだけど、

何も考えずにスタンフォード並みに

学費の高いカレッジを

選んでしまったもんだから

労働者階級の親の稼ぎは

すべて大学の学費に消えていくんですね。

そうして6ヶ月も過ぎた頃には、

私はもうそこに何の価値も

見出せなくなっていた。

自分が人生で何がやりたいのか

私には全く分からなかったし、

それを見つける手助けを

どう大学がしてくれるのかも

全く分からない。なのに自分はここにいて、

親が生涯かけて貯めた金を

残らず使い果たしている。

だから退学を決めた。

全てのことはうまく行くと信じてね。

そりゃ当時はかなり怖かったですよ。

ただ、今こうして振り返ってみると、

あれは人生最良の決断だったと思えます。

だって退学した瞬間から興味のない

必修科目はもう採る必要がないから、

そういうのは止めてしまって、

その分もっともっと

面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。

夢物語とは無縁の暮らしでした。

寮に自分の持ち部屋がないから

夜は友達の部屋の床に寝泊り

させてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと

5セント玉がもらえるんだけど、

あれを貯めて食費に充てたりね。

日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて

街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院で

やっとまともなメシにありつける、

これが無茶苦茶旨くてね。

しかし、こうして自分の興味と

直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、

あとになって値札がつけられないぐらい価値

のあるものだって分かってきたんだね。

ひとつ具体的な話をしてみましょう。

 

PART 3. CONNECTING DOTS

リード大学は、当時としてはおそらく

国内最高水準のカリグラフィ教育を

提供する大学でした。

キャンパスのそれこそ至るところ、

ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに

貼るラベルの1枚1枚まで美しい

手書きのカリグラフィ(飾り文字)が

施されていました。私は退学した身。

もう普通のクラスには出なくていい。

そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、

どうやったらそれができるのか

勉強してみることに決めたんです。

セリフをやってサンセリフの書体もやって、

あとは活字の組み合わせに応じて

字間を調整する手法を学んだり、

素晴らしいフォントを実現するためには

何が必要かを学んだり。

それは美しく、歴史があり、

科学では判別できない

微妙なアートの要素を持つ世界で、

いざ始めてみると私はすっかり夢中に

なってしまったんですね。

こういったことは、どれも生きていく上で

何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。

だけど、それから10年経って

最初のマッキントッシュ・コンピュータを

設計する段になって、この時の経験が

丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。

で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。

そうして完成したのは、

美しいフォント機能を備えた

世界初のコンピュータでした。

もし私が大学であのコースひとつ

寄り道していなかったら、

マックには複数書体も字間調整フォントも

入っていなかっただろうし、

ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、

パソコン全体で見回しても

そうした機能を備えたパソコンは

地上に1台として存在しなかったことになります。

もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、

あのカリグラフィのクラスには

ドロップイン(寄り道)していなかった。

そして、パソコンには今あるような

素晴らしいフォントが搭載されていなかった。
もちろん大学にいた頃の私には、

まだそんな先々のことまで読んで

点と点を繋げてみることなんて

できませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、

これほどまたハッキリクッキリ見えることも

ないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。

未来に先回りして点と点を繋げて

見ることはできない、

君たちにできるのは過去を振り返って

繋げることだけなんだ。

だからこそバラバラの点であっても

将来それが何らかのかたちで

必ず繋がっていくと信じなくてはならない。

自分の根性、運命、人生、カルマ…

何でもいい、

とにかく信じること。点と点が自分の

歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに

繋がっていく、そう信じることで君たちは

確信を持って己の心の赴くまま

生きていくことができる。

結果、人と違う道を行くことになっても

それは同じ。信じることで全てのことは、

間違いなく変わるんです。

 

PART 4. FIRED FROM APPLE

2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。

私は幸運でした。自分が何をしたいのか、

人生の早い段階で見つけることができた。

実家のガレージでウォズと

アップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。

がむしゃらに働いて10年後、

アップルはガレージの我々たった

二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業に

なりました。

そうして自分たちが出しうる最高の作品、

マッキントッシュを発表してたった1年後、

30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、

クビになったんです。

自分が始めた会社だろ?

どうしたらクビになるんだ?と思われるかも

しれませんが、要するにこういうことです。

アップルが大きくなったので

私の右腕として会社を動かせる非常

に有能な人間を雇った。

そして最初の1年かそこらはうまく行った。

けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、

最後は物別れに終わってしまった。

いざ決裂する段階になって

取締役会議が彼に味方したので、

年齢30にして会社を追い出されたと、

そういうことです。

しかも私が会社を放逐されたことは

当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

自分が社会人生命の全てをかけて

打ち込んできたものが消えたんですから、

私はもうズタズタでした。

数ヶ月はどうしたらいいのか

本当に分からなかった。

自分のせいで前の世代から受け継いだ

起業家たちの業績が地に落ちた、

自分は自分に渡されたバトンを

落としてしまったんだ、そう感じました。

このように最悪のかたちで

全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、

デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。

知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで

一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

ところが、そうこうしているうちに

少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。

私はまだ自分のやった仕事が好きでした。

アップルでのイザコザは

その気持ちをいささかも変えなかった。

振られても、まだ好きなんですね。

だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

その時は分からなかったのですが、

やがてアップルをクビになったことは

自分の人生最良の出来事だったのだ、

ということが分かってきました。

成功者であることの重み、

それがビギナーであることの軽さに代わった。

そして、あらゆる物事に対して

前ほど自信も持てなくなった代わりに、

自由になれたことで私はまた一つ、

自分の人生で最もクリエイティブな時代の

絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、

ピクサーという会社を作り、

素晴らしい女性と恋に落ち、

彼女は私の妻になりました。
ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる

世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、

今では世界で最も成功している

アニメーション・スタジオです。

思いがけない方向に物事が運び、

NeXTはアップルが買収し、

私はアップルに復帰。

NeXTで開発した技術は現在アップルが

進める企業再生努力の中心にあります。

ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を

築いてきました。

アップルをクビになっていなかったら

こうした事は何ひとつ起こらなかった、

私にはそう断言できます。

そりゃひどい味の薬でしたよ。

でも患者にはそれが必要なんだろうね。

人生には時としてレンガで

頭をぶん殴られるような

ひどいことも起こるものなのです。

だけど、信念を放り投げちゃいけない。

私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、

自分のやっている仕事が好きだという、

その気持ちがあったからです。

皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。

それは仕事も恋愛も根本は同じで、

君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを

占めていくだろうけど

自分が本当に心の底から満足を

得たいなら進む道はただ一つ、

自分が素晴しいと信じる仕事をやる、

それしかない。

そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら

進むべき道はただ一つ、好きなことを

仕事にすることなんですね。

まだ見つかってないなら探し続ければいい。

落ち着いてしまっちゃ駄目です。

心の問題と一緒でそういうのは見つかると

すぐピンとくるものだし、

素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとに

どんどんどんどん良くなっていく。

だから探し続けること。

落ち着いてしまってはいけない。

 

PART 5. ABOUT DEATH

3つ目は、死に関するお話です。

私は17の時、こんなような言葉を

どこかで読みました。確かこうです。

「来る日も来る日もこれが人生最後の日と

思って生きるとしよう。

そうすればいずれ必ず、

間違いなくその通りになる日がくるだろう」。

それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。

そしてそれから現在に至るまで33年間、

私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを

日課としてきました。

「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、

今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。

それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、

そろそろ何かを変える必要があるなと、

そう悟るわけです。

自分が死と隣り合わせにあることを忘れず

に思うこと。これは私がこれまで人生を左右する

重大な選択を迫られた時には常に、

決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。

何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…

外部からの期待の全て、己のプライドの全て、

屈辱や挫折に対する恐怖の全て…

こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、

きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。

そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。

自分もいつかは死ぬ。

そのことを思い起こせば自分が

何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は

回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。

君たちはもう素っ裸なんです。

自分の心の赴くまま

生きてならない理由など、何一つない。

              
PART 6. DIAGNOSED WITH CANCER

今から1年ほど前、私は癌と診断されました。

朝の7時半にスキャンを受けたところ、

私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。

私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。

医師たちは私に言いました。

これは治療不能な癌の種別である、

ほぼ断定していいと。

生きて3ヶ月から6ヶ月、

それ以上の寿命は望めないだろう、と。

主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、

私に助言しました。

これは医師の世界では「死に支度をしろ」と

いう意味のコード(符牒)です。

それはつまり、子どもたちに

今後10年の間に言っておきたいことが

あるのなら思いつく限り全て、

なんとか今のうちに伝えておけ、

ということです。たった数ヶ月でね。

それはつまり自分の家族が

なるべく楽な気持ちで対処できるよう

万事しっかりケリをつけろ、ということです。

それはつまり、さよならを告げる、ということです。

私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。

そしてその日の夕方遅く、

バイオプシー(生検)を受け、

喉から内視鏡を突っ込んで中を

診てもらったんですね。

内視鏡は胃を通って腸内に入り、

そこから医師たちはすい臓に針で

穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。

私は鎮静剤を服用していたので

よく分からなかったんですが、

その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、

顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、

急に泣き出したんだそうです。

何故ならそれは、すい臓癌としては

極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、

そう分かったからなんです。

こうして私は手術を受け、

ありがたいことに今も元気です。

これは私がこれまで生きてきた中で最も、

死に際に近づいた経験ということになります。

この先何十年かは、これ以上近い経験は

ないものと願いたいですけどね。

以前の私にとって死は、意識すると

役に立つことは立つんだけど

純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。

でも、あれを経験した今だから前より

多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、

誰も死にたい人なんていないんだよね。

天国に行きたいと願う人ですら、

まさかそこに行くために死にたいとは思わない。

にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。

かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。

そしてそれは、そうあるべきことだら、

そういうことになっているんですよ。

何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、

最高の発明品だからです。

それは生のチェンジエージェント、

要するに古きものを一掃して

新しきものに道筋を作っていく

働きのあるものなんです。

今この瞬間、新しきものと言ったら

それは他ならぬ君たちのことだ。

しかしいつか遠くない将来、

その君たちもだんだん古きものに

なっていって一掃される日が来る。

とてもドラマチックな言い草で済まんけど、

でもそれが紛れもない真実なんです。

君たちの時間は限られている。

だから自分以外の

他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。

ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。

それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに

生きていくということだからね。

その他大勢の意見の雑音に

自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。

自分の内なる声、心、直感というのは、

どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、

もうとっくの昔に知っているんだ。

だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

 

PART 7. STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

私が若い頃、

”The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)”という

とんでもない出版物があって、

同世代の間ではバイブルの一つになっていました。

それはスチュアート・ブランドという男が

ここからそう遠くないメンローパークで

製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を

実に生き生きしたものに仕上げていました。

時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷が

まだ普及する前の話ですから、

媒体は全てタイプライターとはさみ、

ポラロイドカメラで作っていた。

だけど、それはまるでグーグルが出る

35年前の時代に遡って出されたグーグルの

ペーパーバック版とも言うべきもので、

理想に輝き、使えるツールと偉大な概念が

それこそページの端から溢れ返っている、

そんな印刷物でした。

スチュアートと彼のチームは

この”The Whole Earth Catalogue”の発行を

何度か重ね、コースを一通り

走り切ってしまうと最終号を出した。

それが70年代半ば。

私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。

最終号の背表紙には、

まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。

君が冒険の好きなタイプなら

ヒッチハイクの途上で一度は出会う、

そんな田舎道の写真です。

写真の下にはこんな言葉が書かれていました。

「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。

それが断筆する彼らが最後に残した、

お別れのメッセージでした。

「Stay hungry, stay foolish.」

それからというもの私は

常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。

そして今、卒業して新たな人生に

踏み出す君たちに、それを願って止みません。

 

Stay hungry, stay foolish.

 

ご清聴ありがとうございました。

the Stanford University Commencement address by Steve Jobs CEO, Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios
翻訳 市村佐登美